Run to the Another World第87話


稲本明は宮城県の名取市で生まれ育ち、中学生の入学当時から親に無理やり

体力維持の為に部活動でボクシングを習わされる事になった。しかし始めてみると意外と

これが楽しく、それが切っ掛けで次第に他の格闘技にも興味を持ち始め、ボクシング部と共に

プライベートでは空手と柔道を一緒に教えている道場へと通う様になり、以後この3つの武術を今も続けている。

ちなみに今は空手が2段、柔道は3段の段位を持っており、ボクシングは22歳の時にプロライセンスを取得した。

彼が東京に出て来たのは高校を卒業してからだった。特にこれと言ってやりたい事が無かった明だったが、このまま

一生地元に居ると言うのも何だかつまらないと思ったので東京で就職をする事にした。

そんな就職先に選んだのは給料が良さそうと言うだけでパチンコ店だったが、今ではそのパチンコ店の店長をしている。

そして、そのパチンコ店で働き始めた数ヵ月後に出会ったのが車と言う存在だった。


元々車には興味が無く、格闘技に打ち込んで来て東京でも格闘技を続けていたのだが、

就職した数ヵ月後にパチンコ店の先輩に「家迄送って行く」と称して夜の首都高速にドライブに

誘われて行ったのが始まりであった。そこで環状線を先輩のCR−Xで走り回って貰い、

格闘技で養ったスピード感覚よりも更に上のスピードの領域があると知って車への興味を段々と持ち始める。

そこからはジムにも通いつつ車を買うための貯金をし始め、1994年にその当時新車でも発売がされていた

EG6シビックの91年モデルを中古車で購入。貯金の何割かをそのシビックの維持費とチューニングに注ぎ込み、

首都高速を走ったり関東のサーキットに行ってみたりと言う様に車にはまり込んで行った。

今現在もそのシビックは明の普段の愛車として使われており、使い勝手が良いし一目で分かる様な

目立った改造はしていないので職場に行く時にも凄く重宝しているのであるとか。


しかし、2000年初頭にそのシビックは廃車寸前に迄追い込まれる事になってしまう。

首都高速道路が1999年にサーキットとして生まれ変わったので、当然明も

そのサーキットに家から近い事もあってリニューアル当初から走り回っていた。

そうしてシビックでめきめき実力をつけて環状線のボスの1人になる迄に成長して

居たのだったが、当時ハチロクとスープラに乗っていた宝坂令次とバトルして

シビックをクラッシュさせてしまう。その当時は首都高サーキットを走る事にも飽きて来ており、

本格的なサーキットへの進出も考えていたが令次の登場が彼の闘志に火をつけ、

引退を撤回させると言う事になった。


スープラに乗っていた令次に負けてしまった明は、これから上に行くのなら

もっとパワーのある車が必要だと言う事を実感し、その結果として

そのデザインに一目惚れをして欲しいと思っていたがなかなか踏ん切りが

つかなかったZ15Aの最終型GTOを思い切って購入。

高い買い物ではあったが、そのスポーティなデザインとエンジンのビッグパワーに

非常に満足しており、それから環状線においては殆んど敵無しとなっていた。


それからは令次が創設したサーティンデビルズに誘われたのでメンバーとして加入し、

一時期は仕事を休職して六甲山にサーティンデビルズのメンバーとして行っていた事もあれば、

サーキットでS15シルビアを使ってプロレーサーとして活動していた事もある。Z15AMのGTOは

その後2度廃車にしてしまい、現在持っているもう1台の愛車のGTOは同じZ15AMでもう3台目になる。

今は首都高サーキットを引退しており、GTOはサーキットで走り込む為の車として使っている。

だが、そんな明にも欠点が存在していた。シビックからGTOにメインマシンを移し変え、元々アンダーステアな

FF車を扱っていたのですぐに挙動にも慣れたのだが、それ故に慢心が生じてしまいその後の敗北を切っ掛けに

凹む様になった。格闘技をやっていた事で精神的に強くなった筈だったが、車で負けると言う事がこれだけ大きな

ショックを生むのかと自分でも驚く位になかなか立ち直る事が出来なかった。そこからメンタル的な部分での弱さが

どんどん大きくなってしまって、酷い時には1回負けると1ヶ月以上立ち直るのに時間が掛かり、それを克服する為に

1度車から離れてもう1度格闘技に専念していた事があった程だ。今も若干そんな名残が残っては居るが、本人曰く

「以前よりは酷くは無くなったと思っている」そうである。


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