Run to the Another World第88話


北海道札幌市出身の岸泰紀は、18歳の時に大学進学の為に東京へと出て来た。

大学に進学した先の就職先に関しては特に決めていなかったが、文章を書くのが

昔から好きだったので何かそう言った関係の仕事に就きたいと思っていた。

そうして見つけたのがジャーナリストの仕事だった。

ジャーナリストと言っても大きな新聞社等では無く、東京の下町の

商店を中心に取材をしてその集めた情報をコラムに纏める仕事であった。

そうしてジャーナリストとしての経験を積んで行っていたが、2年後に

その勤めていた会社が倒産して別の会社に転職。転職先はカーショップや

カー用品店等に取材をかけ、今売れている商品や車のジャンルごとの

ニーズを取材する雑誌社であった。


元々車が好きだったので、そう言う形で車に関わる事が出来ると

言う事は岸にとっては幸せな事でもあった。

その雑誌社で今でもジャーナリストとして働いているが、流石に歳を

取って来ると取材が疲れ気味になって来るのもあるらしい。

そこで1995年から自分でスポーツジムに行って身体を鍛えたり、

2002年から和美にプロレスの技を教えて貰ったりと言う事をして

体力維持に努めている。


東京で働き始めて5年後の1988年、23歳の時に車を手に入れた

岸は北海道では体感する事の出来なかった1年中アスファルトの

道路と言う事でミッドシップの車を購入。それがAW11のMR2だった。

しかし当時は取材の為に何と自分の車を社用車扱いにしてガソリン代が

支給されていた為にチューニングが一切出来ず、仕方無くノーマルのままで

乗る日々が続いた。


それでも1990年、夜のドライブで首都高速を走り回っていたある日

当時は日本の最高級スーパーカーとされていたNSXを首都高で見かける。

勿論カーショップ等に取材していたので名前や形等は知っていたが、

それを生で見た岸は何時かはあの車を手に入れると決心する。

新車価格で1000万円前後のNSXはとても当時の岸には手が出せる様な

代物では無かったので、大人しく貯金をしながらAW11で過ごしていた。


そうして実に8年貯金をして、AW11ももう色々ガタが来ていたので

廃車にして貰いNSXを買う事が出来た。それも当時1番のスポーツグレードで

あるタイプSゼロだ。会社の方もじわじわと業績が伸び、社用車を扱っていたので

NSXは完全にプライベートで乗り回す事が出来る様になったしチューニングも出来る様になった。

AW11時代にも首都高以外に筑波や富士等のサーキットに行ったりしていたが、

NSXになってからはスピード領域もグンとアップしたので更に上のレベルのバトルが可能になっていた。


更に1年後の1999年に首都高がサーキットとして生まれ変わる事を知った岸は、

NSXを首都高用にセットアップしてそこで走り込みをし始める。

取材により不規則な時間帯になる事も多いジャーナリストは、

なかなか生活リズムを安定させる事が難しいと言う事もあって

身近な場所がサーキットになるのは岸にとってはとても嬉しい事であった。

AW11どころかミッドシップ以外の車は教習所以来乗った事が無かったので、

環状線ではミッドシップのトラクションの良さを活かしたコーナリングを研究していた。


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