Run to the Another World第89話


そして最終的には藤尾、由佳、博人と共に「環状線の四天王」と呼ばれる

位に迄成長し、環状線の最速ラップも叩き出した。

だが負けはやはり訪れる物で、当時首都高で実力をつけて来ていた

椎名連とバトルして敗北。

連と出会ったのはその時が始まりであり、更にその1年後には連と共に令次とも

出会い、連が令次にドラテクを教えているかたわらで岸は令次と一緒に

走り込みをしていた。


その1年後の2001年には令次にサーティンデビルズのメンバーに誘われて

加入したが、僅か1年も足らずにチームは解散。

岸は首都高から一旦降りる事を決意し、その1年後から和美に

プロレスの技を習い始めた。

スポーツジムに通っていて基礎体力は出来ていた岸だったが

格闘技のセンスは無かった様で技の飲み込みが遅く、和美に

何度も怒られ呆れられながらも、今現在も彼女は指導に

付き合ってくれている。


そんな和美に感謝する一方で、車は改造車よりもノーマルの方が

一般的に需要が高いので2002年にそれ迄乗っていたNSXを

ノーマルに戻して売却し、パーツも買い手があったので別に売り払って

得た金の全部で500万円を頭金にして、当時新車のNSX−Rを

ポーンと購入してしまった。

勿論チューニングもしていたが、それもローンがあったので3年をかけて

じっくりとNSX−Rをチューニングする事にしたのである。


ドライビングテクニック向上の為にNSX−Rを買った後は

首都高サーキットでは無く富士スピードウェイや

筑波サーキット等を中心に走り回っていた。

時代が進むにつれて車もチューニングもテクノロジーの

進化によってハイレベルになり、結果としてより高い

ドライビングテクニックがレースの世界では求められる様に

なっていたからだ。


だからこそスピードのレベルが首都高サーキットとは

比較にならない普通のサーキットでNSX−Rをチューニングする

傍らで走り込みを続け、3年をかけてじっくりとチューニングされた

NSX−Rで首都高速サーキットに戻って来たのが2005年の

3月であった。

元々戻る気は無かったのだが、令次がサーティンデビルズをメンバーの

大部分を入れ替えて再結成すると言う事で岸も戻ったのだ。


その時のメンバーは和人、恵、栗山、藤尾、由佳、博人、岸、洋子、

ハール、連、永治、和美、孝司、そして令次とサーティンなのに14人だったが

最初の時も14人だったので気にせず走る事に。

更に一方でサーキットで一時期走らないかと知り合いに誘われたり、

サーティンデビルズが全国各地の峠がサーキットになったのでそっちにも進出すると

言われたりしたので、仕事を1年間休職してサーティンデビルズの担当となった

九州の阿蘇山に行ったりと2005年は特に大忙しであった。


しかし、首都高のサーティンデビルズも街道のサーティンデビルズもメンバーの

大量引退により2006年に解散してしまい、岸も首都高サーキットを降りて

今は筑波サーキット、日光サーキット、富士スピードウェイ、本庄サーキット等

関東一帯のサーキットを中心にNSX−Rで走り回っている。

このNSXーRは本人曰く「20年は乗る」つもりでまだまだ乗るのだとか。

勿論プロレス技の特訓もまだまだ和美にして貰うと語っている。


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