Run to the Another World第168話


栃木県の足利市で生まれ育った現在41歳の椎名連は、父親が車好きだったと言う事も

あってか車とバイクに強い興味を持つと同時に、中学1年生の頃から運動不足解消と

体力作りの為に極真空手を始めた。最初はなかなか上達せずに空手そのものを

辞めてしまおうかと考えていた連だったが、自分で空手をやると言い出したからには

頑張って続けてみようと思い直した。そしてその中学1年から今までの27年間、

法事や会社の残業等よっぽどの事が無い限り鍛練をサボってはいない。

しかし空手以上にその当時の連の興味を引いたのがやはり車と

バイクであり、16歳の時に学校にばれない様に原付免許を取得。

それから時を同じくして父親のコネもあり、バイクに乗れると言う事もあって

近所の新聞配達の店でスーパーカブを駆って新聞配達をしていた。


そんな生活をしていた連は体力が自然とついて行き、バイクのライディング

テクニックも新聞配達のアルバイトで高校を卒業する頃にはなかなかの物に

なっていた。だけどバイクのレース活動に行く気は何と無く起きる事は無く、

どちらかと言えば車のレース活動の方に対して興味があった連は高校卒業後に

上京して親の仕送りにプラスして自分でピザ屋の宅配バイトもしつつ、近所の

極真空手道場に空いている時間は通い詰めていた。ピザ屋の宅配バイトは

やはりバイクに乗れると言う事が大きかったから選んだらしい。


そうして大学を卒業した連は就職先を何処にしようかと考えた結果、やっぱり車に

関わる仕事をしたいと思い都内のカー雑誌の編集者として働き始めた。

しかしカー雑誌に限った事では無く、こう言う出版系の職業と言う物は基本的には

仕事が激務の部類に入るし、生活リズムだって不規則になりがちだ。幾ら空手で

身体を鍛えていた連だからと言ってもその変形生活リズムに身体が慣れるまでに

2年かかったのはまだまだ記憶に新しい。

そして身体も生活リズムが分かって来たその1997年に、ようやく自分の車である

PS13シルビアを購入する事が出来た。そして東京で走り回る事が出来る場所と

言えばやはり首都高だった。当時はまだサーキットとして生まれ変わっていなかった

時代だったが、そんな事はお構い無しに仕事帰りや取材帰りには首都高速を走り、

自分の出版社や家までアクセルを踏み込む日々が空手と共に続いた。


そして首都高が晴れて合法的な格安で走る事の出来るサーキットになった1999年、

彼は当時の愛車であったPS13シルビアを操り次々と首都高の走り屋達に打ち勝って行く。

勿論パワーの差を感じて負けをした事はあったものの、当時首都高の四天王と

呼ばれていた藤尾精哉、三浦由佳、小野田博人、岸泰紀を打ち破る事に成功。

その途中で車もPS13シルビアからR32GT−Rのニスモに乗り換え、首都高の

裏四天王と呼ばれていた白井永治、百瀬和美、渡辺亮、正体不明のS30Z乗りを

全て打ち破ってトップに立った経緯を持つ男なのだ。


その1年後には首都高で最も速いボスとして君臨する者だけに送られる称号「ビッグボス」の1人に

孝司と一緒に選ばれる。そうしてビッグボスとして孝司と共に名前が売れていたのだが、その時に

令次と出会って彼に自分のドラテクを教えていた事もあり、令次が2代目の首都高サーキットの

トップに立った事もあって連は弟子にその座を譲って引退した。

だがそのまた1年後の2001年に令次が破れたと聞きつけた連は、孝司のチームである

ゾディアックに加入して首都高サーキットに舞い戻る。

結果としてまた連もその令次を破った宝条京介と言うドライバーに敗れて

しまい、再び引退を決意してその後4年間は首都高サーキットには戻らずに

近場の筑波サーキットや地元栃木の日光サーキット等で腕を磨いていた。


が、2005年の4月に首都高サーキットで再びサーティンデビルズが結成

される事になり、連は令次に誘われる形で再び首都高サーキットに舞い戻る事に

なるのであった。車もずっと乗り続けていたR32GT−Rを操る事に決めたのだが、

いざ舞い戻った時には誘って来た筈の令次に非常に冷たくされた為に、誰が師匠なのか

上下関係をハッキリさせるべくタイマンバトルを仕掛けて令次を打ち負かした事もあった。

その新生サーティンデビルズは僅か1年足らずで解散してしまったが、連自身は

首都高サーキットから降りずに今も現役で走り続けている。


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