Run to the Another World第129話


群馬県の前橋市で市松孝司は生まれ育ち、囲碁や将棋と言った日本の文化に触れる機会が多かった。

どちらかと言えばインドア派だった孝司は、その中でもどんどん将棋の面白さに触れて行ったのである。

そうして将棋を研究して実力も付けて行った孝司はいつしか大会に出場するようになり、今ではプロの

棋士として活躍中だ。

そんな棋士として活躍している孝司だが、18歳の時には高校卒業のお祝いとして両親から車をプレゼントされた。

それがSA22CのRX−7だったのである。そこから今のFD3SのRX−7に至る迄にずっとロータリーエンジンの車、

それもRX−7しか乗っていないのだ。高校を卒業してから本格的に将棋の大会に参加する為に

群馬県から東京都へと移り住んだ彼は、アルバイトをしながら色々な将棋の大会に参加して行った。


その中でストレスが溜まる事も勿論あったので、そう言う時はRX−7で首都高を走ると何故だかすっとしたのだ。

そう言った経緯でスピードを出す事で快感が得られると知った孝司は次第にドライビングテクニックも上達して行き、その後に

プロの棋士としてデビューしてFD3SのRX−7に乗り換える。しかも限定モデルのスパルタンなタイプRZだった。

そのFD3Sで首都高を走っていたのだが、その時に松原周二と出会って首都高でバトルをしたり、サーキットへと出向いて

お互いに腕を磨いたりと言うライバルとして成長して来たのも孝司の記憶の中で大きな物として残っている。

更に1999年に首都高がサーキットになると、将棋の対局で培った先を読む能力と長い経験で培ったドライビングテクニックを

駆使し、1年後には首都高でも2人しか居ないと言うビッグボスの1人として選び出される事にもなった。


しかし突然現れた宝坂令次とバトルして最終的には負けてしまい、一旦首都高を降りてドライビングテクニックをサーキットで

磨いてから同じ様に首都高に戻って来た洋子、周二、陽介、浩夜、ディール、橋本、ハール、永治、グレイル、連、和美の

11人と共にチーム「ゾディアック」を結成して令次のサーティンデビルズが全員倒された後の2001年に首都高へと復帰した。

だが1年後の2000年には宝条京介と言う走り屋と勝負してその京介に敗北してしまい、走りでは無く自分自身その物を

見つめ直す為に新たなステージを目指そうと、車とは全く関係無いムエタイの世界に飛び込む為に棋士家業も休業して単身

タイへと渡る。そうして2005年迄の4年間はタイでムエタイに打ち込み続け、知らない国で知らない世界に飛び込んで

精神的に成長して帰って来た孝司は再び首都高へと復帰する。

だが既に何人かのゾディアックのメンバーは引退しており、令次からサーティンデビルズのチームメンバーが足りないので入ってくれと

頼まれて洋子、ハール、永治、連、和美と一緒にサーティンデビルズの仲間入りを果たした。

更にはサーキットにも遠征して活動したりして、今ではサーティンデビルズは解散してしまったしサーキットでもたまにしか

走っていないが、首都高サーキットは今でも走っているのだ。


更に孝司はムエタイ以外にももう1つ、カンフーを和美から習っている。習い始めたのはタイから帰って来たすぐ後の2005年からで、

ムエタイ選手としてタイで活動していた頃、自分と同じ様にタイにムエタイ修行にやって来たアメリカ人のカンフー使いが居たのだ。

そのアメリカ人のカンフー使いとある時トラブルを起こし、カンフーで撃退されてしまった事からその苦い敗北が記憶に残り続け、それを

払拭する為に孝司もカンフーを習おうと決意した。

しかしカンフー道場と言っても何処に行けば良いのか良く分からなかったので、チームゾディアック時代からの付き合いだった

和美にカンフーを習う事に決めたのである。それからもう9年、ムエタイは13年になる49歳の孝司だが、ムエタイの指導も

一緒に和美から継続して受けているので和美には一切頭が上がらないのもまた事実だ。

棋士としてはベテランで、今では本も出版する等の経験もありRX−7も都内で楽に維持出来ているし、最近は三鷹に

中古だが一軒家も購入した。車でも格闘技でも彼のスタイルは変わらず、全ては将棋のテクニックである先を読む能力を

駆使して戦うのだ。それに格闘技と車のバトルで培った反射神経もその先を読む能力に一役買っているので、それもまた

今の孝司がある理由となっている。


Run to the Another World第130話へ

HPGサイドへ戻る