Run to the Another World第128話


オーストラリアの首都であるキャンベラで生まれ育ったグレイル・カルス、42歳。

元々祖父が日本で腕を磨いたと言う偉大な書道家であり、その跡継ぎとして

生まれて来た彼もまた書道家になると言う事は決まっていた様な物だった。

しかしながら彼は生まれつき身体が弱かった為、まずは体力をつけさせなければ

いけないと感じた祖父と両親は彼に何か『道』とつく名前の武道をやらせる事にする。

書道も同じく『道』と言う漢字が入っているので、同じくその道を極める事によって

書道にも繋がる強い心の道が開けるのでは無いかと考えたかららしい。


と言う訳で4歳の時に始めたのが空手道。空手道から始めたのは百瀬和美と

全く同じであるが、段々と身体を鍛える事にはまっていったのが彼と和美との違いだった。

なので身体の弱さをカバーする為にストレッチを欠かさず行い、一時期はボディビルも

少しだけやりつつその空手道から始まった精神面でのトレーニングにより

書道の修行においてもその集中力の高さが役に立つ様になって行った。

集中してトレーニングをしなければ、いくら安全面に気を配ったトレーニングだからと

言っても怪我をしたり思わぬ事故に繋がる確率がアップしてしまうのは目に見えている。

だからこそ、そうしたトレーニングは彼の身体だけで無く集中力も必然的に鍛える事になった。


その集中力の高さも特筆すべき所なのだが、身体が強くなっていけば自然と頭の回転も

血の巡りが良くなる事によって活性化する。

その頭の回転の良さがアップする事で、次第に祖父から習っていた書道のテクニックに

プラスする形で自分のオリジナリティな一面をプラスした描き方を編み出す事に成功した。

そしてそのオリジナリティが混ざった書道のテクニックを活かし、今では車のステッカーデザインも

副業として手がける様になった。その前衛的なタッチは書道界で賛否両論だが、

カードレスアップ界では大ウケで、車のペイントの仕事もかなり入っている。


そんな彼は空手以外にもカポエイラ、ムエタイ、キックボクシング、クラヴ・マガを学んで、

母国オーストラリアのインターナショナル・ウィンチュン・アカデミーでカンフーと剣術、槍術含む

武術太極拳を習得して更に身体を丈夫にしてから1992年、20歳の時に日本へとやって来た。

日本にやって来たのは勿論本場の書道界で活躍する為だが、オーストラリアでは

右ハンドルの地域の為に日本車が良く見かけられており、何時の間にか彼もまた車に

興味を示す様になっていた。

なので日本車で自分も道路を走って見たいと思い、自分で書道家として活躍する様になってから

翌年1993年、21歳の時にまだ当時新車の存在であるZ32の日産フェアレディZを購入。


そして書道家の仲間に、首都高と言う場所がスリルのある場所だと聞かされて彼もまた首都高の世界へ。

そのままどんどんと首都高の走り屋達の存在を知り、自分もその世界へと飛び込んで首都高を愛して

止まなくなっていった。それゆえにプロレーサーへの誘いも断り、半端な走り屋を絶対に許す事が

出来ない思いもある。武術と書道で鍛えた体力と精神力の高さ、プラス頭の回転の速さで首都高の

走り屋のデータをその頭脳に全て収める事が出来る様にもなった彼は1999年にサーキットになった

首都高の横羽線で名の知れた存在になる、その後は書道に集中する為に一旦首都高から降りたものの、

翌年2000年には復帰して市松孝司率いるチームゾディアックの一員になった。


そのチームゾディアックが宝条京介によって全員打ち負かされて再び彼は首都高を降り、2005年に首都高で

C1グランプリが開かれると知ってプロ参戦を決意しプロレーサーとして今のチームRPの1人として復帰。

だがそこで今度は白石瑠璃に負ける事となり、更に翌年の2006年に坂本淳に誘われる形でBe Legendの

1人として復帰したが今度は早瀬瑞穂に敗北。そろそろ引退かな……と思い始めているが今でも走るのは

好きで、個展の前の煮詰まった時などにはよく首都高に顔を出す。彼の筆遣い同様、ライン取りに迷いはなく、

頭に描いた通りのコーナリングをすることが出来る。

ちなみに坂本淳は自分をBe Legendに誘う為に3回も自宅のある川崎に来てくれたのだが1回目は出かけていて、

2回目は疲れて寝ていたので会う事が出来ず、3回目でようやく会う事が出来たと言うバックストーリーがある。


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