Run to the Another World第125話


11月15日で40歳になる現在39歳の兼山信也は四国、愛媛県宇和島市のみかん農家で

生まれ育った。小さい頃からRPGを中心に良くゲームをしていた彼だったが、12歳の

時に突然車に目覚めてしまった。なので16歳からガソリンスタンドでアルバイトを始め、車の免許を取得。

その後に刺激的なステージを求めて高校卒業後に東京の会社に就職し、首都高と言うステージを知ったのであった。

上京したてで車が買える筈も無かったのだが、兼山の両親は高校卒業と就職祝いで兼山に車をプレゼントしてくれた。

それが1991年に発売していたJZZ30ソアラだった。しかもターボモデルを選んで来てくれたので、そのソアラを使って

兼山は首都高へと進出して行ったのであった。首都高へと1993年4月から進出した兼山は毎日の様に

走り続けており、主に新環状線を中心に走り回っていた。更には一旦仕事を休職し、インドに究極の走りを

する為の精神修行にも6年間行っていたしそこでインドの武術であるカラリパヤットも習得する。


1999年には首都高がサーキットとして生まれ変わったと言う話も出て来て、インドでもソアラで走り回って

6年のキャリアを持っていた兼山は環状線も走り回っていたが重いソアラには少々不向きなステージでもあった。

そう言う重い車を環状線で軽快に操る事が出来ていたのがスープラのスティールハートのアレイレル・エスイトクスだったので、

そのアレイレルにテクニックを教えて欲しいと頼み込んだ兼山はめきめきとその実力を上げて行く。その実力を上げた

兼山にも何と弟子が出来たのだが、それが鈴木流斗であった。

同じく重たいトヨタのアリストで新環状線を走っていたので妙な親近感を覚えた兼山はアレイレルからテクニックを教わりつつ

流斗にもテクニックを教えると言う板ばさみ状態の走り屋生活になった。1年後の2000年には自分が得意とする

新環状線がサーキットとして開通し、ソアラのパワーも手伝ってミドルボスの1人として新環状線に君臨する事が出来る様にもなった。


更にアレイレルにドライビングテクニックを習っていたのが同じミドルボスで環状線で活躍していた大塚誠だったので、彼とも

アレイレルの弟子同士と言う事で仲が良くなって行く。2001年には大塚、アレイレル、流斗、そして兼山の4人が

サーティンデビルズへと誘われたのでチームメンバーとなり、翌年には大塚と兼山だけが一旦首都高を降りた。

大塚はバイクレースに専念する為に首都高から去ったのだが、兼山は首都高では無い本格的なサーキットに参加する為に

首都高を去った。そして辿り着いたのが筑波サーキットや日光サーキット等で開かれるC1グランプリの舞台だったのであった。

首都高サーキットで経験を積んで来た兼山は何とプロのレースチームに誘われ、会社を退職してそちらに転職し、

2005年からC1グランプリが始まる迄プロレーサーとして2001年から腕を磨いていた。


そうしてC1グランプリのRPの大会で今のレーシングプロジェクトの4人が首都高からやって来た事で再会し、2006年迄

レーシングチームでR34GT−Rを走らせていた。

傍らでは街道サーキットに令次から誘われたので、そちらではソアラでは無く峠用にJZA80スープラを購入して大垂水峠で走り回っていた。

そんな兼山は2006年にプロレーサーを引退して今は別の会社に就職し、淳に誘われてBe Legendのメンバーに加入し、再び

首都高サーキットを走っている。

一方で大塚の恋人だった飯田恵からは大塚と一緒にキックボクシングを習っているのだが、基本的に恵とはなかなかスケジュールの

都合で会える事が少ないので、大塚とは結構なキックボクシングのテクニックの差がついてしまっている。


だが、インドの武術であるカラリパヤットはインドに留学した1993年6月から本場で習ってそのまま日本に戻って来た1999年以降もずっと

続けており、2014年の今年で21年になる。

カラリパヤットは世界に名だたるボクシングやレスリング、空手、カンフーテコンドー等色々な武術の全ての元に

なった武術であると言われ、兼山の身体のしなやかさは今の一緒に居る人間のメンバー6人の中で

トップの座に輝いていると言っても過言では無い。その長い経験から8年前の2005年よりあの百瀬和美にも

カラリパヤットを教えている。カラリパヤットには大きく分けて流派は3つで、北と南とその2つの中間があるのだが

彼は南の流派を10年鍛錬し、その後に平行して北の流派も一緒に11年やって来ている経歴がある。


Run to the Another World第126話へ

HPGサイドへ戻る