Run to the Another World第106話


もう少しで34歳になる飯田恵は今でこそ東京で秘書をしているが、生まれ育った大阪の

東大阪市ではキックボクシングに打ち込んで来た過去を持つ。

何か運動をしたいと思っていたのだが、その時に出会ったのが格闘技だ。

大阪にはボクシングの名門ジムである帝拳ジムもあったが、パンチだけでは

少々心許ないと思い足技も混ざった格闘技のキックボクシングを14歳から開始。

1998年の4月に18歳で東京に来てからもキックボクシングは続けていたが、東京に来る前に

大阪でプロのライセンスを取得したので、ジムを移籍した後もプロの何試合かに出場。

だが、やはりプロの世界は厳しく余り良い成績を残せないまま25歳の時に引退。


それ以前から東京では一転して首都高でのレースに打ち込んでいた。大阪で出会った走り屋の

キックボクサーに阪神高速で車の楽しさを教えられ、運転免許も大阪で取得。東京の走り屋は

レベルが高いと言われていたので、自分の進む道を何時かは変更したいと思っていたからだ。

1年間正社員の秘書として働いた金を今度はS14シルビアの購入資金に充て、

そこからサーキットとして生まれ変わったばかりの首都高に19歳でデビュー。キックボクシングで

培った動体視力を駆使して1年間また必死に走り込み、2000年の6月、21歳の誕生日を

迎える3ヶ月前には環状線のボスクラスに弱冠20歳ながら名前を連ねる様にもなった。


そして翌年、S14シルビアの前期型から後期型に乗り換えた恵は、未だに

首都高の伝説のチームとして名高いサーティンデビルズの一員に抜擢される。

2000年の時点で今の他のサエリクス以外の4人とは噂だけの関係であったが、

改めてその場でハールを除く和人と流斗とアレイレルと顔を合わせる事になった。

恵は和人と哲と共に環状線のボスとしてその地域を纏める様に指示を出されたのだったが、

その後にポッと出て来た横浜の暴走族上がりの宝条京介にあっさりと敗北してしまう。

更には他のサーティンデビルズのメンバーはおろかリーダーの宝坂令次もその宝条京介に

負けてしまい、サーティンデビルズはたった1年足らずで解散してしまう事になってしまった。


だが、その2年後の2003年になってからも恵はS14シルビア後期型からS15シルビアへと

マシンチェンジをして相変わらず走り続ける。時を同じくしてその2003年は25歳の時に

区切りをつけてキックボクシングを引退してからは首都高サーキットでのレース活動に打ち込み腕を磨いて居たが、

今度は女の走り屋としてポッと現れた山下緒美に大阪環状線で敗北を喫してしまった。

しかしそれでも走る事への情熱は冷める事は無く、その首都高サーキットで腕を磨いた実績を

引っ提げて2005年には元気レーシングプロジェクトのドライバーとして元気株式会社のS2000を駆って

C1グランプリと言うプロのレースの世界に飛び込む。そこではキックボクシングと違ってそこそこの成績を残す事が

出来、サーキットの「マスター」と言う立場にも就いていた。


このマスターとしての彼女は、サーキットデビューをした駆け出しのレーサー達の最初の関門と

して存在しており、S2000のポテンシャルの高さもあいまって多くのドライバーを苦しめた。

そんな彼女をまたしても同じ女のドライバーである白石瑠璃が今度は首都高サーキットで

抜き去る事になり、C1グランプリにおいてもまた大きな敗北を喫してしまったのであった。

このマスターとして存在していた事が、今のアサドールの波動にサエリクスを除く今の他の

メンバー4人と共に選ばれる事になったのは喜んで良いのかどうか分からないと彼女は思っている。


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