Run to the Another World第104話


高崎和人は北陸、石川県加賀市の1971年出身。母親が合気道の使い手で

あった為に、そのテクニックを子供の頃から叩き込まれて来た事により彼もまた

合気道の使い手となった。そんな彼の実家はバイクショップであり、バイクの音を

日常的に聞きながら育って来た為にバイクにこだわり出した。小学3年生、

8才からミニバイクレースに参戦し始め、今でもたまにバイクレースには顔を出している。

だが中学3年生の時に、東京から遠征にやって来たバイクレーサーに地元の

走り慣れているコースであっさり敗北してしまう。その敗北が切っ掛けで彼は東京への強い

こだわりを持つ様になり、何時かは東京に行ってもっとレベルの高い走りをしたいと考える様になった。


それからは地元のサーキットで日々腕を磨きながら実家のショップで高校に通う傍らでアルバイトもし、

合気道も続けると言う4つのタスクをこなしながら生活。

高校卒業後には東京の八王子にある布団メーカーに就職が決まり、高校卒業と共にバイクで

石川から東京迄走って上京。そこからはバイクで首都高を走って腕を磨きつつ、今度は富士スピードウェイや

日光サーキット、筑波サーキット等にも遠征する。

だがそんな和人に更なる敗北が訪れた。八王子から首都高に走りに行った21才のある夜、

後ろからやって来た赤いEG6シビックに環状線で散々煽られた結果、必死で追い掛けても追いつけない位の

走りを見せつけられ振り切られてしまった。


それから車の世界に飛び込もうと思った和人は、まずはバイクで使ってしまった貯金を取り戻す為に

働きながら車の購入費用を貯める。八王子であれば駐車場も結構空いていたし、免許は実家でバイクを

2トントラックで運ぶ為に取らされていたので車の資金を後は貯めるだけであったのだ。その時の

EG6シビックに勝つ為にまずはシビックよりもポテンシャルが高い車を探しながら貯金をしていたのだが、

それがようやく貯金をし始めた7年後の1999年に現れた。

それこそが、当時日産から発売された限定モデルのパルサーであるVZーRN1だった。

東京の道は余り広く無いので大きな車はやめておこうと思っていた和人の希望にぴったりと一致する車が現れた。

そのパルサーで首都高速に繰り出したが、そのシビックのドライバーは既に首都高を去ってしまった後だった……。


目標を見失い車に対する興味も失った和人だったが、それならば首都高で、今度は車で速くなってやろうと

突然決意して走り込みを始める。バイクで散々レースに対するスピード感覚を養い、合気道で動体視力を

身につけた和人は車に乗り始めたばかりとは思えない程の天才的なテクニックのキレで当時サーキットに

なったばかりの首都高で半年後の2000年には名が知れていた。それからはもっと上のステージを目指して

宮川哲に師事してFR車の走らせ方を覚え、サーティンデビルズにも加入してシルエイティに乗り換えた。

更にS13シルビアに乗り換えてから今度はまたシルエイティに乗り換え、日光サーキットでも一時期

プロレーサーとしてS15シルビアで活動していた時もあった位だった。街道サーキットにも遠征し、

そっちではFD3SのRX−7を使って榛名山を攻めていた。

今では全てやり尽くしたと思ってバイク1台とシルエイティと普段のアシのパルサーを持ってはいるが、

首都高サーキットにはもう走りに行っていない。


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