赤い橋の上で
「あーあ。ムカつくことばっか」
列車の中で美香は盛大に独り言を呟いたが、人目を気にすることはない。可哀想なくらいにガラガラに空いた内房線のこの車両には、自分の他に人は居なかった。
何にともなく怒鳴りつけてしまいたくなるほどのんびりと、内房線は南へと続くレールを進んでいる。ようやく目的の駅に着いた時は、東京の自宅を出発してから数時間後だった。
隣の県だというのにこれほど時間がかかるなんて。車が出せればトロい列車に乗る必要など無いのにと思うと、また気分がいらいらとしてくる。
万が一事故にでも遭ったら危ないから、という理由で所属している事務所は美香の免許証を取り上げ車を運転しないようにと命令した。
仕事のモデル業務に関してはマネージャーが車で送迎してくれるが、オフの日まで電車移動に制限されるのが億劫でならなかった。
「何が危ないからよ。アタシより金の方が大事な癖して」
とまた呟く。事務所が自分を大事にするのは、自分が稼げるモデルであるからだった。
舌打ちを漏らしながらサングラスをかけて電車を降り、ホームの階段を上がると改札の向こうに明るい金髪の小柄な姿を見つけた。
「美香！」と香織が手を降る。モデル名ではなく本名で美香を呼ぶ、数少ないひとりだった。
いつも通りの無邪気な笑顔を見てホッとした反面、苛立ちが募りかけたことに美香は気付かない振りをした。
「久しぶり。元気だった？モデルの仕事ずっと忙しかったみたいじゃない」
「うん、まあね」
美香が素っ気無く応えても、香織は慣れた様子で応えた。
「車止めてあるんだ。どこか行きたいとこある？」
「気晴らし出来るならどこでもいい」
香織は頷くと、美香を駅前に停めてある車へと促した。
「それにしても一体どうしたの？急にこっちに来たいなんて」
慣れた様子でハンドルを切り港方面へと車を走らせる香織は隣の美香に尋ねた。
「いいの。休みたかったから」
「そう？」
車の中でも相変わらず美香はサングラスを外そうともしない。景色は緩やかに流れやがて大きな公園らしき場所へと入り、香織は車を停めて言った。
「さあ、ここから歩きよ」
「え？」
面食らった美香は香織に倣って慌てて助手席を降りた。
目の前にあるのは側面が赤く塗装された――橋。それが橋であると気付くのに美香は暫く時間を要したほどだった。
大きく数度螺旋を描いたあと、海を隔てた向こう側までゆうに200メートル以上は伸びている。高さはといえば10階建てのビルほどもある。
「正確には歩道橋よ。車両は通行禁止だから、渡れるのは人だけなの」
と説明した後、香織は付け加えた。
「東京とは大違いでしょ」
歩道橋と言えば、街中のごみごみとした車道の上に架かる小さいものしか美香は見たことがなかった。香織に連れられて螺旋状になった勾配を上がってみると、
そこはまさに絶景だった。
周囲の海と港が一望出来る橋は先へと続き、まるで空を歩いているかのように錯覚するほどだった。
日が落ちると更に夜景の灯りが際立ち、横浜側のネオンもここから見えるのだと香織は説明した。
港を出入りする漁船が橋の下を通るのを見て、美香はこの橋にこれだけの高さが必要であることを悟った。
「……」
冷たい風が吹き抜け、美香は革ジャンの衿を立てて引き寄せた。
橋のちょうど真ん中まで来たところでどちらからともなく足を止めた。自分達の他に人は無く、まるで地上から切り離された世界のようだった。
「ここなら邪魔は入らないわよ」
唐突に香織が切り出し、美香はぎくりとして振り返った。
「ここへ来た本当の理由は何？」
「何よ、どういう意味？」
美香がつい反射的に挑戦的な言い方をしても、香織は落ち着き払ったままだ。
「尋ねてくれるのは嬉しいけど逃亡の手助けは出来ないわよ。ブログ見てたけど、あんたは今日も仕事のはずでしょ」
「う、うるさいわね。アタシに説教するの？」
「モデルやるのが仕事でしょ。仕事っていうのはやりたくないこともやらなきゃいけないの。すぐに投げ出していいものじゃないわよ」
「…あんただけは味方だと思ったのに」
「味方よ。だから言ってるんじゃない」
香織は美香に詰め寄ると革ジャンの衿元を両手で引っ掴んだ。
「力尽くでも連れ戻すわよ」
だが、その手を簡単に振り払い美香は香織を睨み付けた。
「…やれるものならやってみなさいよ」
突如、迫ってきた拳の乱打を避けて美香はコンクリートへ転がった。起き上がり様に袖から抜いたスローイングナイフを投げ付ける。
香織はナイフの回転を見切り手刀で叩き落したが、続けざまにナイフが飛んでくるや間髪避けるのに手一杯になった。
空を裂いたナイフが次々橋の外へと飛び、遙か眼下の海へと吸い込まれていく。
「…っ！」
業を煮やした香織は飛び出すと、香織の利き手側――右外へと周りこんで腕を捻り上げた。美香が悲鳴を上げる。
反射的に手を緩めたものの、美香がにやりと笑ったのに気がついた時はもう遅かった。鳩尾に当身を喰らい、香織は膝を付いた。
「甘いわね」
と美香が嘲笑ったのも束の間、相手の足刀蹴りが右肩に命中し昏倒する。
「つっ…！！」
香織の狙いは余りにも的確だった。肩に一撃を喰らっただけで右手の指先まであっという間に痺れが広がった。
なんとか体を起こそうとしたが、それを香織に押さえ込まれた。
「さあ、もうナイフは投げられないわよ。覚悟はいい？」
相手が正拳を構えたのを見て美香は思わず顔を背けた。
だが。
「………」
「……？」
微かに香織が躊躇った。
その隙に美香は左手で衿の裏からナイフを３本抜き素早く指の間に挟んで爪状にすると、相手目掛けて振り上げた。
香織の前髪が散る。飛び退って避ける香織を狙い、美香は反動をつけて起き上がり左手を振りかざして威嚇する。
巧みにどうにかそれらを避け、大きく宙返りをした香織は橋の欄干に着地する。
その時、地上の風とは明らかに違う突風が吹き付けた。
「あ！！」
風圧に煽られ、香織の体が大きく後ろ向きに煽られた。
「香織！！」
青ざめた美香はナイフを放り出し、欄干に飛び付いて香織の体を力任せに引っ張った。
どさり、と折り重なってコンクリートの上に２人は倒れた。下敷きになった美香がくぐもった呻きを漏らしたのに気付いて、香織は慌てて彼女の体の上から退く。
「美香！大丈夫？」
「……ばかね。あの時迷わずとどめをさしていればよかったのに」
「………」
起き上がりながら皮肉を言う美香に、香織は笑った。
「モデルの顔に傷をつけるなんて出来ないわよ」
と、手を差し出した。やれやれと首を横に振ると、美香はその手に掴まって立ち上がった。
キアさんにリクエスト申し上げましたところ、キアさんとキリさんで
タイマン張っていただきました！ ありがとうございますー！
なんて言うかこう…女同士の戦いって、ワクワクしますね！ 男のタイマンとはまた違った迫力があるというのか。
素敵な小説どうもでした。